「親たちはどう生きるか」 青木佑太さん著
トーキョーコーヒの親戚が、先日本を出されました。青木佑太さん
「親たちはどう生きるか?」です。
全てを読み終わってはいないのですが、はじめに、冒頭の息子さんとのエピソード、第一章の
「死生観〜親だからこそ、死について考える」
を読んだ時点でスイッチが入り、ゆったりした正月休みということもあって自分の中で「死」について考え続けています。いや理論的に「考え続けている」わけではなくて、ずっと「死」を感じているというのかな?ちょっと不思議な感覚です。
本書では、青木さんの体験からくる確信に満ちた言葉で「死」を自分ごとにすることの大切さを伝えて下さり、様々な観点から「死」を客観視して歪んだ見方ではなく真っ直ぐ向き合うことを促してくれます。
その言葉たちからは根底にある愛を感じます。やはりそこにある愛に共鳴します。
これまでも「死」について自分なりに受け止め方を持っているつもりでいましたが、もっと深くもっとリアルに「死」を意識したいと思っている自分がむくむくと膨れてきました。
これまでも「死」を意図的に意識してみることで、自分の中の「生」への、「生きてこそできること」への熱い想いとエネルギーのようなものが湧いてきた体験から「死を感じること」で「生きる気持ちを強くする」ことを知っています。
そしてこの身体は借り物であり、本体は「魂」であるということが自分の中で揺るぎないものとなっているので、「死」は一つの過程であり、ネガティブな印象は薄れていました。
末娘を泣かせてしまいました
今日は娘たちと鎌倉へ行ってきました。案の定、人の多さに車は大渋滞で駐車する事ができず、とりあえず娘たちを鶴岡八幡宮で下ろして私一人ドライブする事にしました。
日が落ち始める大好きな時間に鎌倉の海岸沿いをドライブし、この目の前の空と海の美しさに感動し、今日ある命に感謝しながら一人の時間を楽しみました。
その帰り道のドライブで末娘と色々なことを話している時、ふと「死」についての自分の感覚をぽろっと口にしてしまいました。色々な思い、背景がある中での一言でしたがとても繊細な14歳の彼女にとって「死」を肯定するような言葉はあまりにも痛烈で傷つけ、怒らせ、呆れさせ、失望させしまいました。その後もなんとか説明しようとしましたがうまくいかず何も伝えられず悲しませたままになってしまいました。
そこで、説明ができないのに軽率に言葉を発してしまった事を反省し「死」と今また向き合っているところです。
寿命について
「死」には色々な形があります。病気であったり、事故であったり、自死であったり、殺人であったり・・・・
大きな事故に遭いどう考えても死ぬであろう状況でも奇跡的に生きている人がいます。戦火を生き延びてくる人もいます。「死」を選ぶ方が楽な状況・・・もあるかもしれません。
人には寿命があるのだと思います。それは生まれる前に決めきているのかもしれません。本当のところは死んでみないとわからないけど。
「死」がもたらす事は決してネガティブな事だけではなく、残された人々に本気で生きることと向き合う機会を与えることになる場合も多くあると思います。そして少しだけ次の世界へ行くことが楽しみでもあります。魂の存在に戻り身軽になってどこへでも行けるのだろうと思うからです。
かといって誰かが亡くなった時に悲しくないかというとそれは全く別の話です。そんなの悲しいに決まっています。会えなくなるのはとても悲しく辛いことで、寂しいことです。だから後悔しないようにみんなに愛を伝えます。
「親たちはどう生きるか」の青木さんも書かれていますが、
「いつ死んでもいいようにやりたいことをやろう」と思います。
そして納得して死ねたら幸せだなぁと思います。魂は続きますがこの私として一生は一度きりだと思うので、この私としてここでできる限りのことはしておきたいのです。
朝、目が覚める毎に感謝して、今日を生きていきたいです。残念ながら自分の設定した寿命は覚えていませんから、明日も目が覚めるとは限らないのです。
明日目が覚めたらまたお会いしましょう!