先日の西野さんの講演会の質問で「ゲームやスマホ」が子供達に与える影響についてどうお考えですか?という質問がありました。時間の関係でそこまでお話ができませんでしたが、西野さんもそれはケースバイケースである事、とても難しい問題ではあると言うことを仰っていました。
不登校関連の集まりに行くと、ゲームやスマホを全否定される場合が多々あります。その場ではなかなか伝えづらいし、伝えたところで伝わる氣がしないので言えない場合が多いのですが・・・
私が体験したこと、知っている事、感じていることを少しまとめてお伝えしたいと思います。
こども達の環境と選択
大前提として・・・私たちは人間をやっていますが、私は「身体はそもそも 器」であるという認識を持っています。時がくればお返しするもので、私本体ではありません。「死んだら終わりではない」と思っています。
ですので、「身体や脳に悪いからやめなさい」という事を簡単には言えません。もしかしたらその選択はその子の魂の成長に必要なものかもしれないからです。
「子供が惹かれている」という事実は確かに何か意味があると思うので、大切にしています。
不登校関連の話で言うと、学校に行かなくなって部屋にこもってゲームばかりしている・・・と言うのは本当によく聞きます。うちの子ども達も全くもってその通りでした。どうしてそうなるのか?まず一つの大きな理由はそれが一番簡単に見つけられる逃げ道だからです。
例えば、自然豊かなところに暮らし、家から一歩出れば豊かな自然に囲まれ、存分に探求できる環境にいたらどうでしょうか?子供達のほとんどは野に出て自然の中で遊び始めるでしょう。ですが、そのような環境にいる子どもたちは、まれなのです。なので選択肢は極々限られてくるのです。そしてそれは時代の流れ的なものもあるし、「かわいそう」なのではなく、何か意味があるのだろうと感じています。
我家の場合
我家の場合も、息子の不登校が始まって真っ先に心配したのが生活リズムの乱れとゲーム依存です。今でも悩みの種ではありますが、ゲームの勝ち負けでものすごい感情の浮き沈みがあり、荒々しく暴言を吐いたりします。家族の夜の睡眠を妨害するほどうるさい時もあり、夜中に息子の部屋に行き「家族のことを考えて!」と訴えるだけでは治らず、何度ゲーム機を壊してやろうかと思ったかわかりません。(笑)
だけれど、純粋にゲームを楽しんでいること、ゲームで友達とも繋がっていること、当時の彼の不安やストレスを理解していたので、一旦冷静になり「万が一壊してしまったらそれが彼にとってどういうことなのかを想像する」事で私自身を取り戻すというのを繰り返していました。
また冷静に話せるタイミングでそれについて家族の負担や心配、迷惑になることを正直に伝えてきました。
息子は自分でも抑えきれない感情が出てくる事、申し訳ないと思い反省していることを伝えてくれましたがもちろんそれはなかなか治らず、何度も話し合いは続けてきました。
そして不登校になって6年が経ち大好きなゲームがあったから、日本中にお友達ができ、月に何度も地方大会に出場し、海外大会にも行くような生活になっています。そしてYoutuber、Pro gemarとしてその資金は賄えています。
それがいいのか悪いのか?そんなことは私にはわかりません。ただ幸せそうで、今も純粋な息子の姿を見ていると、よかったと思うだけです。先のことはあまり考えていません。なるようにしかならないからです。
いつも愛していることを伝え、今は自分の発する言葉の大切さを伝えると共に、自分の影響力を考えるように伝えています。一緒に学び、理解し合うための対話は時折するけれど、ほとんど好きにやってもらってます。
あとは、妹と喧嘩した時や、SNSのアンチコメントが来たり炎上した時に、自分の感情との向き合い方を伝えたりします。こんな悩みは昔なかったものですね。この時代を共に学び、共に歩んでいます。
魂の成長を促す素晴らしいアニメやゲーム
そして今の時代、ゲームといっても本当に様々な種類があります。今私が娘と一緒に楽しんでみている「アニメ」は娘がハマっていた「ゲーム」のアニメ化されたものです。
掻い摘んで概要説明すると、その世界観は人類の未来が舞台で、パラレルワールド、つまり量子力学の「多世界解釈」を表現したゲームです。 その中で主人公は何度も「パラレルワールド」をループし戻ると、その度に違う現実を体験していきます。「別の選択、別の環境」だと同じ時間がどう違った展開をしていくか?を延々とみていくストーリーです。
SFなどのフィクションでは「もしも」の選択や出来事が異なる形で展開する世界として描かれ、 量子力学や宇宙論の分野では、観測や宇宙の構造からパラレルワールドの可能性が探求され、科学的にも魅力的なテーマとなっています。
ストーリーの中で主人公が自分の中に持っている「光り輝く鍵」があります。それはループすればするほど、光り輝いていきます。それは何を表しているかというと、主人公が様々な現実を実際に「体験」することで、この世界についての「理解」が深まり自分の中に「経験値」として蓄積されていきます。
自分の立場や性別も変わったりする中、様々な立場に置かれた人々への理解が深まります。経験を重ねて知識も増え「最善の選択」を選ぶ事を目指していくのだけれど、ある時は自分が「グノーシア汚染」(ある菌に汚染され人を襲う側になる)され悪者側に回ったりするのです。
善悪を飛び越えてくる。
悪を肯定するものでは?という不安と懸念の声が聞こえてきそうですが・・・
またもや人をジャッジしてきた「善悪、二元性」の話になります。
日本のアニメ、ゲームの奥深さ
近年、日本のアニメが高く評価され、その素晴らしさが世界でも知られるようになってきました。
その理由は様々あるのだと思いますが、一番海外の人が驚き、感動するのは「善悪、二元性」に陥らない物語のメッセージ性にあるのではないかなぁ?と感じています。
悪者を悪者たらしめた背景にも理解を示し、愛を注ぐ精神性とでも言いましょうか・・・私もそこに深く感動してしまいます。救われた気持ちになります。これは西野さんが言う、「現れている姿だけではなく子供達のそこに至った背景にまで目をむける」事と同じではないでしょうか?
また、ゲームの中にも様々な精神的な学びがあります。
そこは架空の世界かもしれません、「架空の世界に本当の学びはない」と言う意見もありますが・・・ 心を動かされる体験には変わりありません。
そして私たちがいずれ帰る場所もその「架空の空間」と同じく、物理的なものはありません。ではそこに意味がないのでしょうか?私たちが帰る場所に持って行けるものは、体験した時に感じたその感情、感動、感謝、そして痛みや苦しみ、悲しみなど、全て目に見えないものだけなのです。
「人間とは?生きるとは?」そういう根本的な問いがまた浮かび上がってきます。
きっとこの肉体を脱ぐまでわからないのかもしれないけれど、子ども達と共に、仲間と共にこの世界を堪能しながらこの生を味わいながら答え合わせを楽しみにしておこうと思います。この世界はまるでゲームの世界のようです。
